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2006年11月23日 (木)

「裁判員制度」憲法違反の疑い(その6)第76条関係

憲法第76条[司法権、裁判所、特別裁判所の禁止、裁判官の独立]①項、②項省略 ③すべての裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 「裁判員」は「法律」なのでしょうか。

 裁判官と裁判員の合議体における評決は、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見による、とされています。

 有罪・無罪の判断、量刑の判断において、裁判官が裁判員の意向に拘束されるのは明らかです。

 フランスの英雄ナポレオンあたりならば、「俺が法律だ」と言ったかも知れませんが、たまたま、くじ引きで当たっただけで裁判員に任命された庶民は、「自分が法律」とは夢にも思わないのではないでしょうか。

 

「裁判員制度」憲法違反の疑い(その5)第37条関係

憲法第37条[刑事被告人の諸権利]すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。②項、③項省略

 いろいろな考え方を持つ国民を、裁判員として無作為(立前として)に6人選んで刑事裁判に従事させた場合、果たして公平な裁判が保障されるのか疑問です。

 最高裁は当初、陪審制度については誤判率が高いとして反対の意向だったとのことです(丸田隆著「裁判員制度」平凡社新書81頁~)。では裁判員制度なら誤判率が低いかというと、それは単にデータが無いだけです。ただ、裁判員制度なら、本職の裁判官の判断が入るので、誤判率は低いだろう、というだけのことではないかと思います。

 しかし、これまでは3人の裁判官の意見が分かれた場合、多数意見が通ったはずです。しかし、裁判員制度のもとでは、本職の裁判官の少数意見の方が通こともあり得るのです。

 素人の意向が裁判に反映された場合の誤判率については、アメリカにおける陪審制度の場合よりも低いという保障は、どこにも無いように思います。

2006年11月21日 (火)

「裁判員制度」憲法違反の疑い(その4)第19条関係

憲法第19条[思想及び良心の自由]思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 「人を裁きたくない」「自分には人を裁く資格がない」という人を、強制的に裁判員の職務に従事させるのは、明らかに国家権力による思想及び良心の自由の侵害だと思います。

 第3次小泉内閣時代の法務大臣で、初閣議後の記者会見の席において、死刑の執行命令書にはサインしないと明言された方がおられました。この発言はすぐに撤回されましたが、実態的にはこの大臣のご在任中、死刑が執行されたという報道には接していません。

 このように法務大臣の思想・信条を尊重してきた法務省が、国民に向かってだけ、自己の信条に反する裁判員の職務への従事を強制するのは、御門違いではないでしょうか。

2006年11月20日 (月)

「裁判員制度」憲法違反の疑い(その3)第18条関係

第18条[奴隷的拘束及び苦役からの自由] 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 「人を裁きたくない」という人にとって、裁判員の職務は苦役と感じるかも知れず、その気持ちは本人にしか判りません。いじめの場合、いじめている人がいじめているとは思っていない場合もあるのと同じです。

 この憲法の条文を受けて、労働基準法では、もっと踏み込んで次のように規定しています。

(強制労働の禁止)第5条 使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意志に反して労働を強制してはならない。

 労基法は裁判員に直接適用される法律ではありませんが、憲法第18条の精神は、総ての国民に適用されるべきだと思います。

2006年11月19日 (日)

「裁判員制度」憲法違反の疑い(その2)第14条関係

第14条[法の下の平等、貴族制度の否認、栄典の] すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。②項、③項 省略

 法学部の教授等、社会的身分により裁判員になる義務を免除しているのは、明らかに憲法違反と考えられます。

2006年11月18日 (土)

「裁判員制度」憲法違反の疑い(その1)第13条関係

 憲法第13条[個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重] すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 裁判員になることを拒むことが、「公共の福祉」に反する行為とはどうしても思われません。

 もし、裁判員の職務を果たすことが、「公共の福祉」に役立つとしても、(論理的に言って)果たさないことが「公共の福祉」に反することにはならないのです。

2006年11月17日 (金)

憲法に違反した制度も、国民がおとなしく従えばそれまで

 「裁判員制度」法制化の過程を見ると、裁判員の義務化について、どの段階でも憲法との整合性について論議された形跡は見あたりません。

 このことからも明らかなように、国民は自分の権利は自分で守るしかないのです。最高裁も、個人個人が具体的な権利侵害を訴えない限り、憲法判断はしてくれません。

 したがって、本来裁判員の義務化のように、国民生活に直接重大な支障をもたらすような事項は、国民投票で決めるように制度化されているべきではないでしょうか。

 幸いなことに、「裁判員制度」については、最高裁裁判官の「国民審査」が国民投票と同じ役割をしてくれます。

 昨年の総選挙でも「国民審査」が実施されていたのですが、当時はまだ最高裁が「裁判員ブックレット」を発行していることは、あまり知られていなかったので、「裁判員制度」と「国民審査」との関連に気づく人は少なかったのだと思います。

 存在意義に疑問の声も聞かれる「国民審査」ですが、次の総選挙では注目を浴び、その存在意義が見直されることになれば、これに過ぎることはないように思います。

 

 

 

 

 

2006年11月16日 (木)

法律のみによる国民への新しい制度の義務化は原則的に総て憲法違反

 日本国憲法は、国民に「自由及び幸福追求の権利」を保障しています。ただ一つの例外が「公共の福祉」に反する場合です。

 裁判員になることを拒んで、自宅でのんびりと「自由」を楽しんでいたり、より「幸せ」になりたいために勉学に勤しんだり、額に汗して働いていたりすることが、「公共の福祉」に反する行為になる訳がありません。

 もし、このようなことが「公共の福祉」に反すると言われるのであれば、先の大戦中、防火演習や竹槍訓練に参加しないと「非国民」と呼ばれたことと同じような雰囲気を感じます。

2006年11月15日 (水)

多発する小・中生徒のいじめによる自殺、裁判員制度も心配

 いじめによる小・中生徒の自殺が多発しています。「人を裁きたくない」「裁判員にはなりたくない」という庶民を、国家権力で強制的に裁判員の職務に従事させるのはいかがなものでしょうか。

 司法制度改革審議会意見書(抜粋)を拝読した限りでは、庶民の痛みに配慮した議論がなされた痕跡は見あたりません。

2006年11月10日 (金)

国家権力側に加担してしまった最高裁

 国民の味方と堅く信じていた最高裁が、なぜか「裁判員制度」に関しては国家権力の側に加担してしまいました。今後この件に関して、個々のケースで権利の侵害等の不都合が生じても、国民には訴える術がないことになります。

 それならば最高裁は、「裁判員制度」の導入に不服であれば、「国民審査」で拒否の意思表示ができることを、国民に正しく伝えるべきではないでしょうか。

 刑事裁判に於いても、裁判官は判決の言い渡しに際して、「この判決に不服の場合は、控訴できる」旨、被告に告げることになっています。

 最高裁は、せめて刑事被告人に対すると同様の思いやりを、一般国民にも示して頂きたいと思います。

 

2006年11月 8日 (水)

統治客体意識からの脱却は「国民審査」による権利の行使から

 司法制度改革審議会意見書によれば、政治改革、行政改革など諸々の改革の根底に共通して流れているのは、「国民の一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自立的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画し、この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志であろう。」としています。

 国民が「裁判員制度」の導入を、致し方ないことと諦めムードでこのまま容認することは、正に審議会意見書が脱却すべしとした「統治客体意識」そのものに他なりません。

 最高裁裁判官の「国民審査」という権利を行使して「裁判員制度」を後退させることは、正に「統治主体」として互いに協力しながら、自由と公正な社会の構築に参画することになるのです。

 司法制度改革の目玉として登場した「裁判員制度」が、司法制度改革の理念自体で葬られるとしたら、これほど皮肉なことはありません。

2006年11月 5日 (日)

矛盾を感じる司法制度改革審議会意見書

 2009年から始まることになっている「裁判員制度」法制化の基礎は、平成13年6月12日に出された「司法制度改革審議会意見書」にあるようです。

 この意見書では、司法制度改革の根本的な課題の一つに、「日本国憲法のよって立つ個人の尊重(憲法第13条)と国民主権(同前文、第1条)が真の意味において実現されるために何が必要とされているか」を明らかにすることを掲げています。その結果として誕生したのが、個人の尊重とはほど遠い「裁判員制度」です。

 また、「自由で公正な社会の構築への参画」とか、「自由かつ公正な社会を支えるために」といいながら、唐突に「裁判員は義務」と決めつけています。

 憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。この意見書は、「庶民が家の中で平穏に暮らしている」そのこと自体を「公共の福祉」に反している、と言っているようなものです。

 また、この意見書では、「裁判員」に指名された人の「自由や権利」には全く触れていません。それにもかかわらず、被疑者・被告人の防御権の保障については、「憲法の人権保障の理念を踏まえ、適切な制度を構築していくことが必要」と言及しているのです。法律制定に至る過程においても、、「裁判員」に指名された人の「自由や権利」への配慮に関して議論された形跡は見受けられません。

2006年11月 4日 (土)

ブログ開設の目的

 平穏に暮らしている庶民を、1通の「呼出状」で招集し、強制的に裁判員の職務に従事させ、それに従わなければ処罰する、それが裁判員制度です。

 憲法で保障されている個人の自由と権利、それを国家権力で拘束できるのは、個人の行為が「公共の福祉」に反する場合だけです。

 最高裁は、「裁判員制度ブックレット」を発行し、国民にこの制度への理解を求めています。これを読むと、制度自体の意義は理解できます。しかし、この制度自体にいかなる大義名分があろうとも、それだけで国民の自由と権利を拘束する合理的な根拠にはなりません。

 「裁判員制度ブックレット」では、肝心の国民の自由と権利を拘束する合理的な理由については説明していません。

 国民は、この点について納得のいく理由を説明されるまでは、この制度への参加を留保する当然の権利があります。それをせずに、参加しなければ罰金10万円を科す、というのは国家による国民への恐喝です。

 この説明責任を果たさない最高裁判所裁判官は、衆議院議員総選挙と同時に行われる最高裁裁判官の「国民審査」で罷免できます。

 そのことを、広く国民の皆様に知って頂くことが、このブログ開設の目的です。

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